
売上99%減からの復活劇。
“陰の立役者が語る波瀾万丈な舞台裏”
シャボン玉石けん専務取締役 髙橋道夫
高度成長期を経て、社会が便利さや効率化を求め始めた1974年。その年に〈シャボン玉石けん〉が発売した昔ながらの製法で作る無添加石けんは、そうした風潮へのチャレンジでもありました。
この事業により会社は一時存続が危ぶまれますが、前社長の故・森田光德氏と、現社長・森田隼人氏のリーダーシップで劇的な復活を果たします。その舞台裏を知り尽くすのが専務取締役の髙橋道夫さん。両社長の側近として尽力してきた陰の立役者に、これまでの歩みや会社の未来を語っていただきました。
消費者の健康を守るため、大胆な商品改革を断行
専務が入社された1978年、御社の経営状況は過酷でした。無添加石けんはなかなか世に受け入れられず、売上は1%未満になり、100人いた社員もわずか5人に。なぜ就職先にそうした会社を選んだのですか?
- 高橋
- ずっと「環境」に興味があったことが大きいですね。農薬で死んだ川魚が大量に浮いているのを幼少期によく見ましたが、あの光景が農薬の怖さや生態系の不思議さを意識するきっかけでしょうか。
そして大学時代、就活中に〈シャボン玉石けん〉という環境に優しいメーカーと出合いました。お客様に感謝される商品を手がけているのも魅力的でしたね。大企業の面接では感じなかった“やりがい”を、ここなら得られるかもしれないと。
ちょうど会社側も、再起を図ろうとしていた時期だと聞いています。
- 高橋
- はい。私はシャボン玉石けんに対する愛情や情熱を基準に採用された1期生の1人です。だから先代社長の光德氏や、会社の理念に対する信頼が揺らいだことはありません。1期生5人が入社しても社員は全10名だったので、皆であらゆる業務を分担して頑張りましたね。
実は当社もかつて合成洗剤を作っていた時代がありました。しかしそれを止め、無添加石けんの販売に切り替えるとたちまち販売不振に。それでも無添加にこだわったのは、光德氏が長年悩んでいた湿疹の原因が自社の合成洗剤だったと判ったからです。これが無添加に転進したきっかけですが、消費者への責任感や社会的使命感も大きかったはず。そのときの精神は、いまも当社スローガンの「健康な体ときれいな水を守る。」に生きています。
合成洗剤の全盛期に、あえて時代に逆行するような商品で勝負をかけたわけですね。
- 高橋
- そこには相当な信念と覚悟があったと思います。が、それによって多くの売上と人材を失い「無謀な経営ミス」との批判も受けました。私は入社してから無添加石けんと合成洗剤の違いなどを学び、先代の熱い想いも肌で感じていたので「きっといつか売れる」と思っていました。当時は他に無添加石けんのメーカーがなく、当社が唯一無二の存在なのも強みだと思っていました。
問題は、無添加石けんが “時代遅れ”に見えて、時代を先取りしすぎた商品だったこと。当時は石けんより合成洗剤が新しいものでしたし、環境の話をすると笑われるような時代で、扱ってくれる代理店が少なかった。そこで光德氏は精力的に講演会を開いて無添加石けんのよさをアピールし、私は全国の代理店を尋ね、担当者を説得して回りました。見本が入ったバッグを抱え、関東・関西で取引先を開拓する辛苦の日々でしたが、1980年、当時小売業で日本一のダイエーさんに「シャボン玉石けんコーナーを全店に置きましょう」と言われたときの感動は今も忘れられません。

1987年には若松区に自社工場が竣工します。その狙いは?
- 高橋
- それまで商品製造を委託していた工場が閉鎖になり、自前で生産拠点を持つことにしたんです。売上が徐々に伸びていた時期で、商品を量産して弾みをつけたかったのですが、建設費がかさんで1990年頃の資金繰りは本当に苦しかった。満足な給与が得られず、無念のうちに会社を去った仲間もいます。
しかし、ふいに状況が好転しました。1991年に光德氏の著書『自然流「石けん」読本』がベストセラーになり、18年目にしてようやく黒字になりました。坂本龍一氏のオペラ『LIFE』(1999年)への協賛や、社会現象になった啓発本『買ってはいけない』の中で“買って良い”商品として取りあげられたこと、湾岸戦争がもたらした環境問題への意識の高まりなども追い風となり、当社の名前と商品が着実に拡散。先代も「低迷を続けていたシャボン玉が空に舞い上がった」と喜びました。
多くのリピーターを生む商品力の秘密
長い低迷期でも、社員の皆さんが地道な努力をなぜ続けることができたのでしょう。
- 高橋
- 「社長と一緒にこの会社を育てたい!」と望むメンバーが残っていたので、先代のもと社内が一致結束していたのは確かです。商品のクオリティが認められ、リピーターになられるお客様が増えたことや、連日寄せられる感謝のお手紙も大いに励みになりました。

そうして少しずつ認知を深めた無添加石けんですが、製造面ではどんな難しさがあるのでしょう。
- 高橋
- 当社では「ケン化法」という製法を採用し、石けんの原料(牛脂・パーム油・米糠油など)を大きな釜で炊いて石けんの素を作ります。その過程で専門職人が素材の色、香り、味などを絶えず確かめて品質を一定に保つのですが、これが非常に難しい。気温や湿度で微妙に状態が変わるため、一人前の釜炊き職人になるには10年かかるとも言われます。
つまり作業には釜炊き職人が不可欠なわけですが、他社が無添加石けん事業に参入しづらい理由もここにあります。いまは職人を育てる余裕が企業にありませんからね。しかも製造期間が長いわりに、利益率はさほど高くないので気軽に手を出せる分野じゃないんです。ちなみに多くの石けんの作り方の主流である「中和法」なら4~5時間で作れますが、「ケン化法」だと1週間から10日かかります。
いわばコスパの悪い商品ですよね。それでも私たちが「ケン化法」にこだわるのは、天然の保湿成分を石けんに残し、しっとりと使い心地良い商品にするため。この仕上がりは「中和法」では実現できません。どれほど手間やコストをかけてもこのやり方を貫くつもりです。

無添加石けんが脚光を浴び、これからさらなる飛躍が見込める途上で、2007年に光德氏が急逝されます。そのときの心境をお聞かせ下さい。
- 高橋
- 突然のことで誰もが衝撃を受けていましたね。奇しくもその直前に社長を継いでいた隼人氏は尚更だったでしょう。しかし急だったからこそ、逆に社員全員が「しっかりしないと」と前を向けたとも思っています。
当時、隼人氏はまだ30歳の若さ。専務の目にはどう映りましたか?
- 高橋
- 父がカリスマ経営者だったことで、不安視する人が多かったのは事実。でも私は、隼人氏をサポートするうちに「彼なら大丈夫」と安心するようになりました。というのも、光德氏と隼人氏にはよく似た長所が多かったからです。自ら先頭に立つエネルギーと行動力、社会問題意識の高さ、ブランディングのセンスの良さなど、随所に高い資質を感じていました。
研究部門やマーケティング部門の新設、スマートファクトリーの推進やGXへの取り組み、また、主力商品の売上の一部を社会活動に寄付する「1% for Nature プロジェクト」や、化学物質過敏症への啓発キャンペーン「香害」など、隼人氏だからできたことはたくさんあります。
2021年には産官学連携で「未来の海を守る 島まるごと無添加石けん生活」という、宗像市地島(じのしま)の全島民が無添加石けんを3カ月使用し、どんな環境改善が見られるかという面白いプロジェクトにも取り組みました。
光德氏の先見性や見識を受け継ぎながら、隼人氏は当社を確実に成熟へ導いています。

いつまでも環境問題に挑戦する企業でありたい
海外ともいろんな繋がりが生まれていますね。
- 高橋
- 2018年に、当社の石けん研究に関する論文がアメリカの科学雑誌に掲載されました。その翌年はインドネシアでの森林・泥炭火災用の消火剤開発と普及活動が「環境省グッドライフアワード/環境大臣省 企業部門」を受賞。工場は海外からの視察も増えていますし、今後も国際連携や支援に取り組んでいきます。
説によると、1万年前に人類が発明した石けんを、いまもほぼ変わらぬ製法で作っているのだから不思議な商売ですよね。でもそこから可能性が広がり、多くの国や人と繋がれるのだから本当に素敵です。
いまや石けんメーカーの枠を超え、どの分野ともコラボできる懐深さを感じます。
- 高橋
- その勢いを生んでいるのは、意欲的な社員たちの存在です。「こんなことがやりたい!」と次々にアイデアを出してくる。企業理念に沿うならば、石けん以外の研究さえ推奨されます。新しい芽は、きっとそういうところに生まれるものだろうと。
会社の規模は年々大きくなっていますが、このように社員一人ひとりが自由に輝ける組織づくりは紛れもなく隼人氏の功績でしょう。
伝統と革新を織り交ぜながら歴史を歩む〈シャボン玉石けん〉。そんな御社の未来に、専務は何を望みますか?
- 高橋
- 売上よりも大切なのはやはり「環境」です。私たちは常に環境問題に挑んできた企業。世間にもそこを期待される存在になりつつあるので、常にそれ以上のことをやろうという気概を忘れないでほしい。そして、「せっかく働くなら世のためになる企業で」という意志を持った若者が集まる企業をつくってもらえたら嬉しいですね。